世界の果てをつれて歩く

日常と幻想(笑)の間をうろうろしているどうしようもない人のブログ

ピントの合わないカメラ

時々、自分の周りで起こっていることにあまりにも興味が持てなくなる時があって、自分はどこかおかしいのだろうかと思う時があります。

コロナの騒がれる中採用していただいたパート先は、40代50代の方が多くて、30代前半の私ですが職場内では一番年下です。先輩方と一緒に働いていると本当に思うことが、彼女たちのコミュニケーション力のすごさです。

そんなに仕事中にぺちゃくちゃいろんな話をしているわけではないけれど、誰かがちょっと冗談をいうと、それに対して誰かの返しがさらに面白かったりするのです。話題は幅が広く、仕事上のまじめな話から最近話題の「鬼滅の刃」についてまで、様々です。

となりでその先輩方の会話を聞いていると、どうしてそんなに世の中のいろんな話題にアンテナをはってそれを自分の言葉で話せるんだろうかと、圧倒されるような、少し焦るような気持になるのです。私もその会話に参加しないわけではないけれど、どんなに頑張っても先輩方の軽やかな会話のリズムに、いまいち乗れていない感をいつも感じてしまいます。たぶん、私はなにかの話題を会話のなかで掘り下げて楽しむということがとても下手なのです。先輩方は、結婚していたり子供がいたり、色々な人間関係の中でのコミュニケーションの経験値が、私なんかとは雲泥の差なのは明らかなのですが、なんだか自分が50歳になってこんな風に会話しているところがどうしても想像できないのです。

子供の時、国会中継をテレビで見て(あれは学校の卒業式の練習みたいに言葉が用意してあって練習した、何かのセレモニーみたいなものだろう)とか本気で思ったほど、あんなにたくさんの話題についての言葉を(しかも難解で意味不明な言葉を使って)自分の言葉で発信できるなんて思っていませんでした。

(なんでこうなってしまったのだろう)と考えて浮かんできたのは「暗黙の了解」という言葉でした。

子供の時の私の家には暗黙の了解のようなものがたくさんあったことに、大人になってから気づきました。ひいおじいさんから0歳児の弟までの大家族だった時もあったので、それはしょうがないことだったのかもしれませんが、いかに家の中に波風を立てないようにするか考える癖がついていて、私があの時発していた言葉や文章の数々は、たぶんけっこうな割合で、こう言っておけば無難という「定型文」だったのでは、と思ったのです。言葉は「定型文」になってくると、(私はこれが好きだ)という本来は心の底から湧いてくるはずの「感情」まで操作し始めるようで、『だらしのない恰好』をしたミュージシャンの音楽は聴こうと思わなくなるし、『馬鹿らしいお笑い番組』など嫌いだと言い聞かせるようになります。これらは全部テレビで見ていると機嫌の悪くなる大人が家族の中にいたんですよね。

こんな感じで身の回りを「無難なもの」で固めていくと、私の「好きなもの」というのは、まるで感情の入っていないスカスカのカスで埋まっていきます。実はカスなのに、それを「好きなもの」と信じ込ませちゃってるわけなので、その偽物の好きなものが自分の周りに集まってくるわけです。本当は心が動かないものにエネルギーを使うというのは良くないですね。10代の終わりごろから、私はちょっと変になりました。

狭い世界の「無難なもの」を見極める力ばかり鍛えていてたら、本当は好きなものも好きではないことにするのがうまくなって、見えないふりをしていたら本当に見えなくなってしまったのかもしれません。

合わせたいときにピントを合わせられないカメラみたいなものです。

この前もこんな風にポンコツカメラ状態になってしまい、この前まで興味を持っていたことさえ関心がなくなっていた時がありました。そういう状態が何日か続いた、ある日のお仕事の帰り、だいぶ前に作った音楽のプレイリストを聴いてみたら(おお、なんかいいじゃん)と思いました。ちょっと前の私はちゃんと「好き」を選択していたんだな、と思いました。

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 最近は真っ暗だけど、ちょっと前まで夕方6時ごろといえば夕焼けがきれいな時間でした。

駅で電車を待ちながら、夕焼けの太陽に近いところの赤からオレンジ、黄色、青のグラデーションの黄色と青の間にほんのちょっとだけ緑色が見えるような気がしました。

 

本日も読んでくださってありがとうございました(^^)/