世界の果てをつれて歩く

日常と幻想(笑)の間をうろうろしているどうしようもない人のブログ

さみしさについて考えた

こんばんわ、
最近証明写真をとって、自分の目の下のクマの濃さに衝撃を受けてしまった、はてっこです。ちょっとだけ落ち込みました。(/o\)
たまたま今日は調子が悪かったことにして、できるだけ見ないことにしました。それが一番よい気がします。人は日々変化しているのですから!笑




気がつけば、日々結論がでなさそうなどうでもいいことをあーだこーだ考えてしまう私。今日も薄っぺらーいことを広く浅く考えていました。

ところで、さみしいって思うのは、人間が生きるために必要な感情だそうです。というか、感情は必要だから出てくるのであって、、、とか違う方へ行きそうなのを、戻してきて。
むかーし大自然のなか生きていたとき、やっぱり孤独でいるよりは、群れているほうがなにかと生きるために都合がよかったのかも。だから、さみしいはなかなかしんどいものだけど、私のからだの大事な反応なのだなと思うのです。
では私はどういうときにさみしいって思うのだろう、自分にとってさみしいってどういうことか、となんか書いてみたくなったのでお時間のある方はお付き合いください。

さみしいと思うことって、さみしいな、ああ今自分はさみしいと感じているんだな。と思えば思うほどさみしくなってくる気がします。
さみしいって、痛みでたとえるとしたら、
タンスに足の指ぶつけた!痛って~!!
っという痛みじゃなくて、
なんかお腹冷えた、ちょっと痛い、なんかしくしくしてきた、うぅー痛いよーっていう痛みに似ている気がします。さみしいという痛さが、じわじわ広がってくる感じです。
これは私の感じ方ですよ。


数年前にバイトをしていたところに通うのに、いつも通る商店街があって、そこはなぜかいつも童謡の音楽が流れていました。
ある冬の夕方、帰るときその商店街をいつものように通ると、前をすごく腰の曲がったお年寄りの男性が歩いていました。失礼だけど、少ししんどそうだと思いました。
そのおじいさんが歩きながら、商店街を流れる童謡に合わせて歌っていたんです。

かーらーす、なぜ泣くの。

ちょっと、からだの奥からしぼりだすようなその声を後ろを歩きながらずっと聞いて居たら、思わず涙が出てきてしまって、だんだんさみしくなったんです。
さみしいのスイッチがはいってしまって、どうしようもありませんでした。
これもまた失礼だけど、あのおじいさんには家で待っている人がいたらいいなと思いました。
本当に失礼ですよね。おじいさんはただご機嫌に歌っていただけかもしれないのに。
その時の私の心が結構ガタガタだったのかもしれません。誰かと自分との境界線があいまいになっていたようにも思います。涙が出てきたら止まらなくて、寂しくなって歩く道を変えました。
なんだか自分が、急に不安になって泣き出した子供のようだと思いました。
あの頃よりはさみしさ強くなり、さみしさの忘れ方が上手くなったように思います。

結局言いたいことがうまく書けていない感じかするのですが、
「日々変化している私、のある日の考え」の記録ということで・・。

今日もお会いできてうれしいですφ(..)